破壊と再生は自然現象
Aug 24, 2026自らの感性と接続して生きると決める。聞こえは良いが、それには覚悟と痛みが伴う。なぜなら、人間の肉体、脳みそ、マインドはそのままの状態は「保全」が基本だから。サバイバル脳の通りに生きると、思考優位になるので、惰性や恐怖から選択をすることの方が多い。そうなると、左脳的機能を持つサバイバル脳が決めた過去の選択によって出来上がった「今」に対して、改めて感性と接続した人は違和感を感じるはず。
だからこそ、過去の自分が作り上げた人生のうち、今の自分が違和感を感じるところに対しての「破壊」という作業は、感性に還って生きる上では通過必須なのだ。今日はその破壊のプロセスに付随する恐怖を掘り下げていく。
破壊とは
古いものが朽ちる
破壊という言葉は、インパクトがでかい。言葉に宿る威圧感は半端ない。だからか、どこか言葉だけから感じる重みが内包されている気がする。しかし先日、庭先の手入れをしていたとき、2週間前の工事の影響で一部壊された花壇を見て気付いたことがあった。
「破壊は自然現象なのかもしれない」
人の手を介して破壊された花壇の一角だったが、破壊の爪痕はそれだけではなかった。土がひっくり返されたことにより、根が痛み、その影響で植物が枯れ果て、無造作に積み上がっていた。そしてその「人工的」な破壊の下を除くと、たくさんのダンゴムシや蛆虫が生息していた。
ダンゴムシも蛆虫も、腐ったものしか食べない。そう、花壇の一角の破壊のきっかけは人の都合によるものだったとしても、その勢いに乗った自然がすでに介入していたのだ。腐ったものを好む虫が食べ漁ったら、そこに残るのは分解された植物と新しい土。再生への橋渡しだ。
きっかけにこだわらない
破壊と再生に限ったことではないが、最近感じることの一つが「きっかけは、それがもたらす結果にあまり関係ない」ということ。マーケティングを一所懸命行った結果としてお問い合わせがフォロワーさんから入るのか、自分からDMを送って作ったご縁が成約に繋がるのか。きっかけは何であれ、最後は良好な関係性の中でサービスに満足してもらえれば、もはやきっかけにこだわる必要が無くなる。
同じ容量で破壊のプロセスもきっかけはさほど重要では無い気がする。
壊れる関係は、今自分で壊さなくても壊れる運命にある。
合わない職場、クライアント、従業員は、今自分で離れなくても、いつか離れざるを得ない時が来る。
良い意味で、破壊されるべきものは決まっている気がする。植物の世界であっても人間同士の事であっても、破壊は自然現象なのではないか。
強い希望
入れ替え試験
庭の手入れに話を戻す。破壊された植物の残存を片付けたら、その下にはすでに新しい草木の芽が生えていた。雑草もあるが、その場に植えてあった花の新芽もある。破壊の前からそこにあったのか、破壊が起きてから生えたのかは定かではない。
いずれにしても、破壊の強度に耐えられない、弱った植物や古い植物はそこにはもうなかった。
残った植物と、残存から生えてきた植物こそが、今の「強度」に相応しい存在のような気がしたのだ。それは、私たちの人生における破壊と再生と同じに思える。
破壊のきっかけは何であれ、破壊に耐えられない古いものは破壊のプロセスで朽ちる。逆に、今に相応しいものは、神経質にならなくても残る。ずいぶんお気楽な話ではないか。
離婚、絶縁、孤独を直視する
前述の破壊を、自らの人生で経験しようとなると、ほとんどの場合に恐れるのが何かとの「別れ」。
今の自分が欲しい未来を手に入れるためには、もしかしたら配偶者の理解と助けが必要になるかもしれない。お金の工面かもしれないし、時間の交渉かもしれない。どちらの場合も、その「やりたいこと」によっては配偶者の理解が不可能であるという予測もちらつくだろう。
相手を熟知しているからこそ予測できる対立や意見分かれ。その恐怖たるやは、とてつもない。
最悪の場合、離婚や絶縁もあり得る世界線が見える。
しかしこうなると、選択肢は2つしかない。自分の感性を人質に、虚構の夫婦を演じ続けるか、自分の感性を生きる覚悟をして、結果に執着せずに本気で相手と対話をするか。
ここでどちらの選択肢も「正しい」と言える。ただ、感性に還った生き方を貫くには道は一つしかない。
自然現象という諦め
ここで一つ、希望となる見方を共有したい。破壊も、その後に続く再生も、自然現象だとしたら?
壊れるものは、壊れる定め。そして壊れるプロセスの中で、強度が見合わないものは破壊の中で巻き添いになって朽ちる定め。
こう見ると「成るようになる」気がしてこないか。
そして、上にどれだけ破壊の残存が重たくのしかかろうと、次に出てくるものはそれを押し上げる強さを内包しているのも自然の定め。だとしたら、破壊と再生というプロセスを明るい希望に感じないか。
希望と感じるか、「仕方ない」と諦めるか。どちらにしても手放しやすくなるだろう。
次の約束がない恐れ
最後に、破壊と再生に関連してよく聞く「恐れ」について。破壊すべきだということは認識できても、その次に欲しいものが手に入る保証がない中での手放しは非常に怖いという現象。
左脳的な人間は、どうしても未来のことを危惧する。だからこの恐れが発生することも、ある意味自然の摂理に反していない。
だからこそ、手放す恐れは無視せずに自分で認めてあげれば良い。
その上で、次にくるものは、どのような形になったとしても、手放したものより強度の高いものであることに期待は寄せて良いのではないか。
少しは、破壊が楽しみになりません?